祭神
元社格
境内社

生身天満宮の祭神は、天満宮と言う名の通り、「菅原道真」です。

 

道真は承和12年(845年)に生まれ、18歳で式部省試を受けて合格、文章生(もんしょうせい)となり、さらに25歳で方略試という国家試験に合格(これは230年間で合格者はわずか65人という超難関の試験)。これがのちに合格祈願の神様として称えられる根拠となっています。33歳で式部少輔と文章博士という学者としての最高位まで登りつめました。

しかしその8年後に突然、官位を解かれ、讃岐の守を任じられて4年間四国へ赴任することになります。他の学者たちが勢いを恐れていったん彼を京からひき離そうとしたようです。任期を終えて京に戻った道真をいっきに政治の表舞台にひきあげていったのは宇多天皇でした。寛平6年(894年)には遣唐使派遣をとりやめるという道真の提案が可決されるほど政権上の重要人物となっていました。54歳のとき右大臣となり、左大臣の藤原時平と肩をならべて政治の最高位にまで達したのでした。

しかしその間に、宇多天皇と親密な仲であることに強い懸念を抱いた時平は、まず宇多天皇を31歳の若さで上皇として隠居させ、まだ年少の醍醐天皇を即位させました。そして「道真は上皇をあざむき天皇との仲を裂いて権力を我がものにしようとしている」という理由をつけて九州への左遷を言い渡したのでした。こうして道真は時平のワナにかかり、京を追われて、九州は筑紫の国の太宰府へと流され、903年この世を去りました。

道真の死から6年後、天下を我がものとしていたはずの藤原時平が39歳の若さで急死してしまいます。またそれと重なるように流行り病や凶作がつづきました。また清涼殿での雨乞い儀式の最中、落雷が藤原家の者たちを直撃して即死させるという事件が起こりました。このような不幸がつづくにつれて民衆は、「これはきっと道真公が怨霊となって京の都を祟っているのだ」と口々にうわさしはじめました。その怨霊を鎮めるために天徳3年(959年)右大臣藤原師輔によって神殿が建立され「北野天満宮天神」と命名して道真を神として奉りました。それでも怒りはおさまらぬのではと恐れた者たちは、道真の死からちょうど90年たった993年太政大臣という最高官位を授けるにいたったのです。やがて「怨霊」が鎮まると、学問の神様としての天神信仰として天満宮が全国にひろまっていきました。