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由緒はいただいた資料からの抜粋です。
延喜元年(901)、菅原道真公が右大臣のとき藤原時平らの策略により、大宰権師として九州に左遷されたとき、菅公の領地園部の代官武部源蔵(当社宮司家の初祖)が、菅公の八男慶能君の養育を頼まれ、当時園部小麦山にあった邸内に密かに菅公の木造を刻み、生祠として奉斎したのを創祠としたことから生身(いきみ)天満宮と称し、日本最古の天満宮である。
以後、足利将軍義政の命により細川武蔵守は社領等を寄進し、菅領細川高国らは社頭に禁制高札を立て(現代に伝わる京都府指定文化財)、手厚く守護してきた。後に、園部藩初代藩主小出吉親公が但馬の国出石より当地園部に移封され、承応二年(1653)小麦山に築城の際、現在地に遷座され、以後三百五十余年を経過している。境内は数多くの杉の古木に囲まれ、静かな佇まいの中に歴史の重みを感じさせる。平成元年本殿大屋根の修復が奉賛会、崇敬者の方々の浄財により完了し面目を一新している。社殿横には、近在に希な奉納能舞台があり、拝殿、絵馬堂には古くからの数多くの額が奉納されていて必見の価値あるものも多い。
また、歌舞伎名作の一つ「菅原伝授手習鑑」の登場人物として武部源蔵は特に名高く、天満宮の回廊は手習鑑の遺業の建物と伝えられ、ご神徳授与を願い、参拝者の回廊を回り祈願されるお姿が毎日のように見受けられる。
申すまでもなく祭神菅原道真公は、学問能筆の神様として崇められ、学業成就、受験合格を願う方々の参拝が目立っている。また、例年五月一日の春祭に授与される雷除けのお札は、日々の安全を願う信奉者はもとより、遠隔地からの授与を願う参拝者も多く大いに賑わっている。さらに、神前脇の「使いの牛」(石像)は、古くから、頭をなでて知恵を授かったり、自分の体に病いのあるときは、牛の同じ場所を撫でて病気平癒のお蔭を戴くという云い伝えがある。
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